通勤の乗り物は大体乗っている人が決まっています。座る場所も。時々若い短いスカートの茶髪のお姉さんが乗ってきたりしますと、一斉に視線がその方向に注がれます。
バスの車体もずーっと一緒だったのに今日はどんな具合か 車窓側に一人用椅子が一列に並んでいる大型バスでした。
乗り込んだ途端 空席の無いことが判りました。運転手さんのそばに立ち、つり革につかまり、今日はどんなことが・・・・
トントンと肩を叩かれました。背中側の座席に座っていた叔母さんでした。(いつも大体行き帰り一緒の おばさんです。確かに私より若そうです。が、でも)そして 「どうぞ」と立って 座席を譲ってくれるのです。
ガ〜〜ンッ エッ? わたしが???
とうとう 座席を譲って貰うようになったか。
おことわりすることも良くないと思って、「どうして?」等 グズグズ言いながら、座らせて貰いました。
そうしましたら やはり楽らく・・。そして不思議な発見をしました。座席に座るといつもの心持ちになります。いつもの朝の思考回路になりますので、とりとめなくイロイロの事を考えます。
けれども 立っていますと、凄く限定されたことしか考えられないのです。この違いは何かと、下車駅近くになって気が付き、更に
聖書のことばを思い出しました。
マルコによる福音書11章24節25節
「だから 言っておく。祈り求めるものはすべて既に与えられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。また 立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
どうして「立って祈る」と限定されているのでしょう、
等々 思う浮かべながら、日曜日礼拝にでかけましょうと今日の一日が始まりました。
みなさまも様々の事をそのまま持って礼拝へいかがですか。
良い休日を また 月曜日
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